文人の呼び名

文学史を勉強すると、というか義務教育+αの国語の授業を受けるだけで、色々有名な文人について聞くことになる。『こころ』の夏目漱石、『蜘蛛の糸』の芥川龍之介、『舞姫』の森鴎外、『人間失格』の太宰治、「故郷は遠きにありて思うもの」の室生犀星などなど。何人かの教師から習うと ふと気づくことがある。
漱石、芥川、鴎外、太宰、犀星 と、各文人の呼び名は苗字か名前の呼び捨てに統一されているのだ。不思議と 夏目、龍之介、治、室生 と呼ぶ人はいない。なぜだろう?世間の人に聞いてみても、これは一緒である。「千円札が夏目じゃなくなるんだってさー」とか「治読んでこいって課題が出ちゃったよ」とか言う人はまずいない。
この呼び名は、何を基準に選定されているのだろうか。大分前から感じていた疑問なのだが、専門の人(日本文学の研究者など)には聞く機会はまだない。とりあえず、身の回りの人間に聞いてみた。すると①誰かその文人研究の第一人者が言い出し、定着②苗字と名前のうち、珍しい方を採用 などが上げられた。
しかし、②だと苗字名前共にすごい凝った筆名の人はどうするのか(詩人などにすごいのが多い)、また逆に苗字も名前も普通の人はどうするのか(本名の場合ありがち)。「珍しいか珍しくないか」の判定は個人の感覚にもよるし、先のような場合、人によって意見が分かれるだろう。
また、①の場合誰が第一人者かという問題がある。Aという文人研究に二大大家がいて、それぞれ別々の呼び方をしていたらどちらになるのか。
すると、ここはやはり折衷案で、③「珍しいと思った方を各々研究を始めた人が呼びだす」→「研究者仲間で広がるか、場合によっては淘汰され」→「生き残った呼び名がスタンダードとして定着」→「玄人から素人へ伝播し」→「社会的呼び名が決定される」 ということだろうか。
また、もう一つフルネームで呼ばれる という場合がある。どちらかというと苗字・名前どちらで呼ばれるかの傾向はあっても、フルネームで呼ばれる方が多いという場合もある。これは私の見たところ、大昔の人と現代の文人に多い。
例えば、『土佐日記』の紀貫之を「き」とか「きの」とか「つらゆき」とか呼んでいる人は今の所見たことがない。しかし、これはここまで大昔の文人の名前は「の」入りで読むことが普通でばらして読むのには適さないからかもしれない。
また、現代の文人(=大御所の作家など)の場合、本人の耳に入る可能性を考慮しているとも考えられる。この場合、フルネーム呼び捨てに合わせて、非凡・平凡を問わず苗字採用というのもある。いきなり下の名前よ呼び捨てにされるより、その方が抵抗が少ないから というのならこれも説明がつく。とはいえ、これらの理由は、所詮私とその周辺の人が考えた素人案に過ぎない。
それに、中程度に昔の文人の呼び名採用方法は、①や②、③にしろ、多少の地域差が出てもおかしくないと思うのだが、今の所「うちの地元では夏目って呼びます」とか言う人にも出会ったことがない。私が知らないだけでいるのだろうか。。

もし、そういう人がいたらご一報下さい。あと、その他「呼び名採用方法の新案」もあればよろしく☆